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● 友達ごっこ --- 友達ごっこ ●

 電車を二回乗り換えて一時間弱。更に路線バスで四十五分。やっとのことで目的地に着くころには、すっかり辺りは暗くなっていた。
 バスを降りた途端、濃厚な潮の香りが鼻につく。それだけで、ああ帰ってきたんだな、と実感できた。たったの二ヵ月強ここを離れただけなのに、懐かしさが込みあげてくる。
「何もない所でしょ」
 蓮子の返事は無い。けれど蓮子が嫌がってないことだけは、掌から伝わってくる体温で分かった。
「暗いから、足もとに気をつけてね」
 街灯さえも無い田舎道だったけれど、月明かりと星の明かりとで、次第に目が慣れて辺りが分かるようになっていく。
 そういえば、いつの間にか雨は止んだみたいだ。少なくとも今、月に雲はかっていない。
「少し歩くけど、すぐに着くから」
 蓮子は相変わらず何も言ってはくれないけれど、手は繋いだまま、着かず離れず一定の距離を保って付いてきてくれた。
 ずっと彼女に手を振り解かれそうで怖かったけれど、電車の中でもバスの中でもわたしたちは手を繋いだままだった。それどころか今では軽く、手を握り返してくれている。
 はじめは蓮子を落ち着かせるために掴んだ手だったけれど、案外落ち着いたのはわたしの方だったのかもしれない。
 冷たく生気が感じられなかった彼女の手は、今ではすっかり温かい。
 昔からよく、手が冷たい人は心が暖かいって言われてるけれど、そんなのは大嘘だよ。人は、嘘をついたり、強がったり、……自分を誤魔化したりした時、指先や鼻の先やそういう先端部分が体温を失うんだよ。−−昔、一緒に手を繋いで歩くとき、よく勲雄はそう言っていた。勿論、冷え性の場合もあるけどね、……なんていつも決まって、茶化してもいたけれど。でも勲雄の手はいつだってずっと、暖かかった。
 懐かしいことを思い出したな。そんなことを考えつつ、ゆっくりと十分ほど歩き続けた。
 見覚えのある瓦葺の古い一軒家――勲雄の家の前で、立ち止まる。そこで蓮子の手を離した。
「ここで見てて」
 深呼吸をして息を整えて……だけど、今更ながら、緊張がわたしを支配し始めた。予想以上に繋いでいた蓮子の手がわたしの心を静めていたのかもしれない。
 震えがおさまらないままの人差し指で、やっとのことでインターホンを押した。
「はい、どなたですか」
 聞き慣れた、低い落ち着いた声が、耳を支配する。勲雄の声だ……そう思ったら、何も言えなくなってしまった。
 ふと、傘をもっていない方の右手に温もりを感じ振り返ると、蓮子が手を握っていてくれていた。それだけで、頭は再び冴え渡っていく。
「もう大丈夫。……ありがと」
 蓮子は手を離すと、一歩下がる。
 だけど、蓮子がいてくれる、それがわたしをどこまでも落ち着けてくれた。
「今晩は、……永久です」
 スピーカーに一瞬息を呑んだような音が混じる。すぐに勲雄が玄関の扉を開けた。
「とわ?」
 茫然と立ちつくす勲雄は、以前よりまた背が高くなったように感じられた。
 彼はわたしの側に駆け寄ると、一度思い切り抱きしめて、それからまた身を離す。
「本当にとわなんだ……。驚いた、お帰り。……S高の制服、凄く似合ってる」
 勲雄はただでさえ細い目を、眩しい物を見る時のように一層細くしてわたしを見た。
「ありがと。勲雄も学生服、似合ってるよ」
「中学の時と、ボタンと校章が変わっただけだけどね」
 どちらからともなく自然に笑みが零れた。顔をくしゃくしゃにして笑う癖も、照れた時鼻の頭を軽く掻くところも、何一つ変わっていなくて。なんだか昔に戻れた気がした。
「それにしても……来るなら来るって行ってくれれば、迎えに行ったのに」
「うん、でも今日初めてここに来る決心がついたから。……今来ておかないと、一生来れない気がしたから」
「それって、どういう……」
 その時ふと勲雄の後ろの玄関を見ると、わたしたちの様子を見守るように人影があった。「それより……今、もしかしてミヤビちゃんが来てるの?」
「あ、うん」
 勲雄は頬を赤く染め、鼻の頭を軽く掻いた。
 彼女の家、共働きでね、一人で夕飯を食べることが多いらしいんだ。でもそんなのって寂しいし、味気ないだろ? だから、今はこうやってちょくちょくご飯食べに来て貰ってるんだ。おふくろが雅のこと凄く気に入ってね。今じゃ僕よりもずっと、彼女の来訪を喜んでるみたいだよ。
 穏やかな声で、勲雄はそう続けた。瞳はどこまでも優しい。
「勲雄は、……本当にミヤビちゃんのことが好きなんだね」
「な!」
 勲雄は言葉に詰まって、わたしを見た。
 玄関の人影は、相変わらず心配そうに張りついている。わたしにとってミヤビちゃんの存在が不安の種だったように、ミヤビちゃんにとってはわたしこそが大きな不安材料だったのかもしれない。自分のことで一杯だった時は分からなかった。でも今は見える。もしかしたら、彼女の気持ちを一番理解することができるのはわたしなのかもしれない。
「勲雄はね、優しすぎるんだよ。女の子に……ううん、みんなに。平等すぎるの。勿論、それは勲雄の長所だけど。……でもね、そういうのって、勲雄のことを好きな子にとっては凄く辛いし、不安になっちゃうんだよ。……わたしも、勲雄のことが好きだった時はそうだったから」
 勲雄は更に驚いたような表情で、わたしを凝視した。わたしは精一杯口の端を上げる。笑っているように見えるかどうかは分からないけれど、満面の笑顔に映るように。
「ミヤビちゃんを大切にしてあげて。わたしに構いすぎると、愛想つかされるよ」
 勲雄は言葉を捜すように、視線を宙に泳がせた。少しして、彼はふっと小さくため息をつき、口を開く。
「……とわ、変わったね。昔は頼りない妹みたいだったけど、今は等身大の女の子に見える」
 わたしは身を翻し、ずっと見守っていてくれた蓮子の手を取った。
「わたし、友達が出来たの。大好きな友達」
 蓮子は一瞬驚いたようにわたしを見たけれど、すぐにくすぐったそうな笑みを浮かべた。
「バイバイ、勲雄」
 そのまま帰ろうとした時のことだった。
「今は無理かもしれないけど、そのうち家にも帰ってあげなよ。お姉さんが心配してた。……本当は言うなって言われてたんだけどね。よく電話が来るんだ。とわから連絡は来てないかってね」
 ……家族からの愛情は、とっくの昔に諦めていた。だから余計に、勲雄にしがみついていた部分もあったんだけど。
 俄かに信じられなくて驚いて振り返ると、勲雄の横には、ミヤビちゃんらしきショートカットの女の子が立っていた。わたしにはその彼女の顔にどこか見覚えがあって、更にびっくりしてしまった。けれど勲雄はそんなわたしの様子には気づかずに言葉を続ける。
「とわが思ってるよりずっと、とわの居場所は多いんだから」
 今度こそ、わたしは彼らに背を向けて、蓮子と二人、歩き出した。
 勲雄の言った通りわたしの居場所は沢山あったのかもしれない。そう考えたら、蓮子の手のひらの温もりが、余計こそばゆく思えた。

 

 勲雄たちが見えなくなった途端、蓮子は呆れたように大きなため息をついた。しんとした暗闇の中は見えないものが多い分、音や声ははっきりと大きく響く。
「普通、わざわざ失恋するためにこんな所まで来るかァ?」
 心底呆れたようにそう言った蓮子は、紛れもなく、いつもの蓮子で。なんだかわたしは安心して顔の筋肉が弛緩するのを感じた。
「だって、蓮子が言ったんだよ? 『謝罪するなら直接!』って。……今日の場合は別に謝るわけじゃなかったけど、結局は同じなんじゃないかな、って思って。伝えたいことは、本人に直接……でしょ? でも、遠回しでも伝わることもあるんだよ。蓮子は私の言葉を受け入れてくれなかった。信じてくれなかった。だけど、勲雄に言ったこと、蓮子にも伝えたいと思ってたから。……ね、伝わったでしょ?」
 蓮子の目を見て、微笑んでみせる。蓮子は驚いたようにこちらを凝視したものの、すぐに眼差しは優しいものに変わった。今度は、彼女の目にはしっかりとわたしが写っている。
「……やっと、蓮子の目に映れた」
 わたしが思わずそう呟くと、蓮子は照れ隠しのように斜め左を指さした。
「あ、くちなし。くちなしの花が咲いてる」
「本当、……いい匂い」
 辺りに充満した甘い甘い香りを、肺いっぱいに吸い込む。いつの間にか止んだ雨、それからいつもより早く咲いたくちなしの花……もう、すぐに夏がくるのかもしれない。行きもこの道を通ったのに気づけなかった。自分でも気づいてなかったけれど、きっと精神的余裕がなかったんだろう。
 そういえば、何か重大なことを忘れてる気がする。何となく右腕を持ち上げて、時計を見た。途端、頭の中が真っ白になる。
「ヤバイ……。最終バスまであと五分!」
「なっ……。明日だって学校あるんだよ? ……あんたって本当、骨の髄までトロすぎ!」
 わたしたちはどちらからともなく、水たまりも気にせずに地面を蹴り上げ、走りだした。

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